
人生の転機は「小笠原」
江戸川橋「ポニンアイランドシェフ」 店主 武山 泰士さん
言い訳から始まった挑戦の旅
東京都文京区・江川橋の地蔵通り商店にあるダイニングキチン「ボニンアイラドシェフ」店主の武泰士さんは社会人35年、料理一筋の道をんできた。厨房に立武山さんの目は常に剣だ。
カウンターの常連んと話しながらも、理の手際は無駄がなく、火の入れ加減ひつにも細やかな神経行き届いている。こわりの「秒単位の火減」の感覚が、今のの基礎を作っている「準備がすべて。準が完璽なら、あとは中するだけ」。そうる姿からはへ料理人しての務持(きょうじ)がにじむ。
「ボニンアイランシェフ」には、料理けでなく武山さんの生観もにじんでいる店内には木の温もりあふれ、訪れた人がい家のように長居ししまう空気が漂う。翡、小笠原諸島・父島の洋食店でシェフ務めた経験を活かし小笠原の野菜や食材東京で提供しているー「最初は、ただのい訳だったんです」22歳の時、小笠原った理由をそう振りる。19歳で料理人ての道を歩み始めたのの、同宦代がキララと輝く姿に焦り、らやましさを募らせた。ダイビングのライセンスを取ったのを実に、武山さんは父へと向かった。夢とうより、すがりたかた||山=時の素直境だ。だが、住めば都といえ、現実は甘くな場所を変えても心は変わらず、不安と寂しの日々が続いた。そでも、小笠原の人たの温かさが武山さん変えていく。自分のとを初めて家族のよに受け入れてくれた元の先輩・ウォーリさんや、後に15年こととなる洋食店「ャーリーブラウン」オーナー・菊池隆さらとの出会いが大きった。「人間にとっ一番大事なことは何か、自分に問え」ウーリーさんの問いをきっかけに、自分自身向き合うようになった24歳からが人生ののスタートだった、と振り返る。
また、師匠・菊池んからの「人とお金追いかけない。着いきてもらえるように自分を磨きなさい」という教えは、今も胸にまれている。下町の情が残る東京の北池育ちの武山さんにとて、小笠原の人情はこか懐かしく、人生好転するきっかけとった。人と比べるこでしか自分を測れなった若い頃から、少ずつ価値観が柔らか変わっていった。
27歳で一度東京り、料理の技術やケタリング、イベント理の知識を学んだ。歳で結婚し、30歳び父島へ戻り「チャリーブラウン」の店に。10年間を「40降の自分を作る準備間」と位置づけ、目前の仕事に必死で向合った。「楽しいは分の喜び。うれしい人を通して得る軍『うれしいをたくさんられる人生にしたいそう語る。
40歳で再ひ上京念願だった独立に向て動き出した。物件しは難航したが、1 年以上をかけて出会っのが現在の江戸川橋地。店名「ボニンアランドシェフ」は、笠原の英名「ボニンイランド」に由来す「おいしいと楽しを大切に、訪れた人自然と集う場所にしい」。そんな思いをめた店内には、小笠のポスターやチャーーブラウンのロゴがも飾られている。
「人生に大きな決なんて要らない。ダならまた考えればいい。ただ一感謝の気ちだけは忘れないこ
と」。素直さと感謝武山さんの原動力だ「人はいつか星にる。星になる前の日で、働き続けたいでね」。力強く、穏やな笑顔を浮かべた。
一今日も江戸川橋先には、ふらりと訪る常連や新しい客がう。小笠原の風がそと流れるこの店で、山さんの物語は続いていく。最後に、実は取材をした私自身、この店に深い思い入れがある大学進学で上京した頃、直感で扉を叩きアルバイトとして働始めたのが始まりだた。大学1 年の夏休みは、ほぼ毎日キッチに立ち、ボス(武山ん)と汗を流した。情深く、時に厳しいスや、常連さんたちの含詰の中で、たくんの人生の知恵をもった。気づけばこのは「墾要の実家」のうな場所になり、バト仲間と小笠原諸島連れて行ってもらっ思い出も、今も鮮明覚えている。「自分知ることの大切さ」ーー。ボスが大切にしていたこの言葉は、の人生の指針になっいる。
ライター/山形颯生
ボニンアイランドシェフ
東京都文京区関口1-1-4
☎︎13-3235-0070
毎週火曜日定休。
